以前、交流倶楽部での活動を現地で支えてくださっている仲間を紹介いたしました。(現地メンバー) その中のお二人、主婦のカルパナさんと娘で学生のサルミラさんは、フューチャーフラワー基金の現地での作業を主にお手伝いしてくださっている方々です。 日本から代表が支援を受ける子供を選ぶ際、村人と連絡とったり、定期的に村の学校や子供たちが通う学校や家を訪ねて様子を確認しながら、常にもっと困っている子供がいないか村人から情報収集していたりと、いなくてはならない存在です。 私(鈴木)が2011年3月の第3期フューチャーフラワー基金、奨学金対象者を選ぶ為に村を訪れたときも、カトマンドゥから同行し、マイディ村まで案内してくださいました。 主婦で自身も教育を十分に受けれなかったカルパナさん(読み書きだけは大人になってから学んだ)は最初、ネパール語がほとんど出来ない私と途中から二人で過すのが不安で仕方なく、英語で会話できるサルミラさんを何とか引きとめようとしていました。サルミラさんは大学の授業があるため、最初の5日間程でカトマンドゥへ戻るという日程でした。 ![]() 町で育ったサルミラさん(私と同様、村ではお客様状態・・・)。 一方私は、3年前にフューチャーフラワー基金第一号の子供へ最初の支援金を届ける際、日本から来ていた代表のご家族と一日だけ滞在して以来のマイディ村に行けること、写真や子供レポートでしか知らない子供たち全員と初対面できることに、ただわくわくし胸を膨らませていました。 ![]() 村の典型的な食事。ご飯、塩とスパイス味の野菜のスープと大根漬け。野菜のおかずがつく時もある。一日一回だったり、白米を毎日食べられない家庭もまだある。 ネパールの田舎での生活は、10年前にチトワン郡でのホームステイで、それまでの人生最高の経験とも言える楽しい思い出があったので、不安はそれほどありませんでした。もちろん、そこで自給自足をしている生活をすべて一人では出来ません。朝は日が昇る前から水を汲み、薪を焚き、お茶を沸かし、家畜のえさを集め与え、乳を搾り云々・・・と1日中続く仕事をひとつも完璧にこなす事が出来ないのが現実です。水汲みひとつといっても、舗装されていないでこぼこ道を上り下り片道10~30分歩き、約15キロほどの水瓶を首からかけた紐で支えた籠で背中に背負い何往復という、大変な重労働なのです!!下手すれば、ぬれた落ち葉で滑って足を踏み外し硬い岩の上に転んだりでもしたら、歩いていける距離には病院は無いので、二人はとても私の身の安全に気を使ってくださいました。ですので、今回は田舎の生活のほぼすべて、ネパール人でしかも田舎で育った経験のあるカルパナさんや他の女性たちに頼らなければいけませんでした。 ![]() 一本の木が薪になるまで一日中働く男性たち。 ![]() アイロン(電気は使わず、中に炭を入れて使う)。 ![]() 炭から火をおこし食事の支度をするカルパナさん(これには本当に脱帽しました・・・) 初めの頃は私もネパール語のみの日常のコミュニケーションはまだしも、支援する子供を決定する面接を英語なしで出来るのかといった心配はありました。 面接は、日本の支援者様たちが汗水流して稼いだお金の一部を、どの家庭の子供が受けるにふさわしいか選ぶ、というとても難しく大切なプロセス。そこで失敗したら、いくらネパールより豊かとは言え、善意で支援してくださる日本の里親さんたちに会わせる顔がありません。 村人も人間なので、嘘を言ってだまされるかもしれない。そこで、最初の2,3日の間は面接はせず、村の生活に慣れること、二人と一緒に第1期、2期の子供たちの家庭や他の村人の家を訪問し、サルミラさんに英語で質問し、出来るだけその社会の基準に、目と感覚を慣れさせるよう努めました。 ![]() 親戚やご近所さん一同集合で記念撮影。 《続く》 |
Author:日本・ネパール文化交流倶楽部 事務局
ネパール大好き、何故か嫌いになれない国・・・、なぜか無性に懐かしい気持ちになる・・・
多くの人の心のよりどころであるネパールをもっと身近に感じてもらえるように、仙台を拠点に活動しています。
より多くの人が生まれた国や境遇関係なく人生を思うように楽しめるように、ネパールと日本の架け橋となりつつ、楽しく生きたい人の集まりです。
ここではネパールと人と人との交流の楽しさに魅了された、又は、これからされたい会員さんたちとの連絡やお知らせ、交流倶楽部の日常の出来事等を公開してゆきます。
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